「あまちゃん」讃

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が、いよいよ最終盤を迎えようとしている。このドラマが“あまちゃん現象”といっていいほどの人気を集めていることについては、軽快でありながら独特のクセがあるテーマ曲を始めとして、大友良英氏による音楽の魅力が大きく寄与していることは疑えない*1

しかし、とくに調べたわけでもないけれども、ドラマの根幹となっているシナリオの魅力なり卓抜さについては、必ずしも広く理解されてはいないように思えるので*2、手短かに筆者の見解を述べておきたいと思う。

たとえば、今出ている「MUSIC MAGAZINE」誌の9月号で、篠原章氏は、「あまちゃん」は自分にとって「これまでのドラマとまったく別格の、“革命的な”ドラマである」と述べており*3、森直人氏は「宮藤官九郎の見事な成熟」というタイトルで「あまちゃん」について論じている*4。筆者も、このお二人の趣旨には異論はないものの、「あまちゃん」のどんなところが“革命的”であり、どんな点に作者の“成熟”を感じるのかということに関しては、残念ながらもう一つピンとこなかった。

筆者が思うに、「あまちゃん」が日本のTVドラマとして“革命的”であるとすれば、それは何よりも、(たしかに能年玲奈嬢が演じる天野アキはとても魅力的で、ドラマの人気は、このヒロインの魅力を抜きには語れないとは思うけれども)このドラマでは、決して少なくはない登場人物たち相互の関係性に“批評性”が不可欠のものであるかのように組み込まれていて、そのようなものとして登場人物たちの関係性が描かれているということにこそあるのではないだろうか*5。つまり、「あまちゃん」は、たしかによくあるような“一人の女の子の成長の物語”でもあるけれども、それと同時に、あるいは「それ以上に」、“集団の劇”でもあるという点に際立った特色があると筆者は考えている。*6

この“批評性”という言葉だけでは、何のことかわからないという方もいるだろうから、もう少し具体的に見てみよう。たとえば、荒川良々が演じている駅員の吉田などは、最初に出てきた頃にはとくに、見方によってはかなりのワルであり、なかなか“毒のある存在”だと思うのだが、“批評性”というのは、この“毒”のことだといってもいい。そして、吉田にかぎらず、「あまちゃん」では、登場人物の誰もが、濃淡や質には差があっても、多かれ少なかれこの“毒”を持っていて、相互に関わりあう中で、この“毒”が中和されて消えてしまうこともあれば、時には素晴らしい効き目のある薬に変わってしまうこともある。しかも、通常のドラマであれば、こうした“毒”の化学変化ともいえる現象は何回に一度あるかないかであるのに、「あまちゃん」では、毎回必ず、それもほとんど途切れることがないかのように変化が起こり続けるのだ*7

ここまでいえばおわかりいただけたかと思うけれども、ここで筆者が“毒”といっているものは、登場人物相互のコミュニケーションを阻害するものではなくて、むしろ逆にそれを活性化し、その場にいる人物たちの関係性を強めるものとして現れている(と筆者は思うのだが)ということに、どうか注目していただきたい。日常の言葉でいえば、“冗談”であったり“ウイット”がその典型だといっていいだろうけれども、作者・宮藤官九郎氏が「あまちゃん」の中で駆使しているのは、決して“冗談”(=ギャグ)だけではない。今やすっかり流行語になっている「じぇじぇじぇ!」をはじめ、彼は、これでもかと思うほどに多彩な手法を使いこなして、とてもバイタルな関係性が生まれる“場”を描き続けている。だから筆者には、この“場”こそが「あまちゃん」の本当の主人公なのではないか…とさえ思えてしまうのだ。

世の中にはいろいろな人たちがいるもので、筆者のように「『あまちゃん』は面白い!」と公言してはばからない人間がいる一方で、「騒がしいばかりで、付いて行けない」と言う人や、「単なるオフザケじゃないの?」と言う人も少なくないようだ*8。けれどもそれは、筆者に言わせれば、やはりかなり皮相な見方であるように思えてならない。先にふれた森真人氏も指摘しているように、「あまちゃん」には現代のドラマとしての十分なリアリティがあるし、一見“冗談”のように聞こえるセリフが、次の瞬間には血の出るような言葉に変わっていたりするということも、よくあるからだ。そして、もちろんそこには、作者の肉声が投影されていたりもするだろう。

筆者は人の好き嫌いにまで口出ししようとは思わないし、ドラマの受取り方は、それこそ人それぞれであって当然だと思うけれども、「あまちゃん」が素晴らしいドラマであることはまったく疑いようがないと思っている。あまり見たことがないという方には、これからでも遅くはないので、少しは続けてご覧になってみていただきたいものだ。

*1:この点については、「MUSIC MAGAZINE」誌が2013年9月号で「音楽から見た『あまちゃん』」として特集を組んでいるので、ぜひご覧いただきたい。http://musicmagazine.jp/mm/index.html

*2:その後知ったのだが、この人の分析はさすがだと思う。http://www5.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/archives/40558.html こちらも参考になる。http://mantan-web.jp/2013/05/06/20130505dog00m200010000c.html

*3:同誌37p

*4:同誌46-47p

*5:今読んでいる本に、ここで筆者が述べようとしたことに通じる考え方が述べられているので紹介しておきたい。哲学者の國分功一郎氏がジル・ドゥルーズの考えについて述べた言葉なのだが、「思考のはじまりには不一致があるのだ…人にものを考えさせるのは、自分と一致しない『敵』の『不法侵入』だ」と。中沢新一國分功一郎『哲学の自然』63-64p=9/13

*6:よりわかりやすい言い方をするなら、通例のドラマでは考えられないほどに、登場人物一人ひとりの“キャラが立っている”ということだと言ってもいいだろう。もちろん、ドラマであるかぎり、魅力的な人物を登場させたいと思わない作者はいないだろうが、この「あまちゃん」ほど、それが成功している例は稀だと思う。強いていえば、ほとんど“シェイクスピア並み”であり、実際に出演した役者たち一人ひとりが、このドラマほど“男を上げ”たり“女を上げ”たりしているのは珍しいと思う。=9/24

*7:実は、TVドラマという枠を離れて演劇の世界に目を向ければ、こうした“批評性”なり“毒”は決して珍しいものではなくて、それなしでは演劇というものが成り立たないといってもよいほど、演劇にとっては本質的な要素でもあるのだけれど、それを、半年の間、ほぼ毎日放映される朝ドラという器の中に盛り込み続けるというのは驚くべきことで、このシナリオを書き上げた宮藤官九郎氏の才能には、ただ脱帽するしかない。

*8:その後、ネットを中心に、「あまちゃん」はなぜ原発事故のことにふれないのか?という疑問を持つ人が相当に増えたようだ。筆者の友人でもある志田歩氏もその一人だhttp://shidaayumi.jugem.jp/?eid=731。 この志田氏の疑問に対して、先にふれた篠原章氏が9月17日に自身のfacebook上でレスしておりhttps://www.facebook.com/akira.shinohara1?hc_location=stream 、筆者の見方も篠原氏とほぼ同じだといっていい。筆者も含めて、大の大人が寄り集まって考えてみても確実な対処法が見つからないような現在の福島の状況について、「あまちゃん」のようなドラマに何らかの解決策を求めたりするのはそもそも無理な話だし、それでも強いて登場人物の誰かに福島のことに言及させたりすれば、篠原氏が述べているように、たちまち「それはリアルではなくなる」し、かえって「安っぽくなってしまう」…というのが筆者の考えだ。もちろん、志田氏のような問題提起は大いに歓迎すべきことである。=9/24