「秘密保護法」の憂鬱


昨日、「特定秘密保護法案」が、ついに衆議院を通過してしまった。この法案を提出したこと自体、政党政治を自ら否定するようなもので、自民党の歴史的な愚挙というべきだけれども、なしくずし的に成立に手を貸そうとしている公明党みんなの党の責任も、極めて重大だと言わなければならない。

と結論だけを述べても要領を得ない方も少なくないだろうから、お節介を承知で、以下、若干の説明を試みてみよう。

内閣官房が公表しているこの法案の「概要」*1を一読してみて、まず感じるのは、法案の全体が“類いまれなほどの悪文”であるということだ。一般の市民がこの「概要」を読みこなすのは、相当に困難だろうと思う。*2まず、この一点だけで、重要法案としては明らかに失格である。

次に、これも悪文であるということに関連しているのだが、この法案は、そもそも何を目的としているのかも明確でなく*3、「趣旨」として述べられている「国及び国民の安全の確保に資する」ための手段としても適切なものかどうかさえ疑わしいと言わなければならない*4

この点は、法案の条文を見てもいない方には何のことかわからないだろうから、さらに少し説明が必要だろう。どういうことかといえば、この法案がテーマとしているか、あるいは、本来テーマとすべきであったのは行政機関の「内部統制」の問題に他ならないことが明らかであり*5、これを解決するにはわざわざ新たに法律を制定する必要などまったくなくて、各機関の内部でルールを明確化して規律の徹底をはかれば済むはずだし、その方がたしかで望ましいということだ*6。にもかかわらず、なぜこんな法案ができてしまったのかについては、十分に検証する必要がある*7。もしこの点をおろそかにするなら、この国はあらゆる方面において劣化して行かざるをえなくなるだろう。*8

また、この法律はあたかも“公務員だけを対象とするもの”であるかのように説明しているマスコミも多いのだが、法案を読んでみると、これはまったくの誤解だと言わなければならない。法案によれば、たとえ(公務員ではない)一般の市民であっても、「特定秘密を取得した者」は処罰の対象にされるし、さらに怖ろしいのは、ほとんどあらゆることが対象になりうる「特定秘密の保有者の管理を害する行為による特定秘密の取得行為」(書き写していても呆れるほどの悪文だ!!)そのものだけでなく、この行為の「未遂、共謀、教唆又は煽動」も、故意か否かにかかわらず「処罰する」と明記されていることだ*9

これはどういうことかというと、たとえ本人には自分が「特定秘密」に関わっているなどという自覚がまったくなくても、この法律があるかぎり、ほんのウワサだけでも、さらには、根拠となるべきような事実が一切なくても、官憲による捜査の対象にされてしまう恐れが十分にある、ということだ。まして筆者のように、政府を批判するようなことを書いていることが明らかである場合は、いつ何時、「ちょっとお話を聞かせていただけませんか?」ということになるかわかったものではない、ということに他ならない*10

この点も、まったく理解できていない方が多いようだけれども、この法案のように処罰される行為の範囲が極めて幅広く、かつ規定があいまいなままでは、最終的に有罪になるかどうかだけが問題なのではなく、嫌疑をかけられ、官憲=警察(とくに公安警察)の捜査の対象にされるだけで、市民としての普段の生活が重大な危機にさらされる恐れが多分にある、ということは決して見落としてはいけない*11。国会で、安倍総理は「適切な運用をはかる条項がある」などと述べているが、これは「その他」として「本法の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならない旨を定める」という申し訳にすぎない一項があるというだけのことであり、法案の骨子が上述のようなものである以上、この安倍氏の釈明など何の保証にもならない。筆者は、あるいは安倍氏には、法律というものの効力(当然、負の側面も含む)を理解するだけの知力がないのではないかと疑わずにはいられない。

ここで、この「秘密保護法」成立後の社会(には断じてなってほしくないが)について、改めて考えてみよう。それは、誰か貶めたい人間がいたら、官憲に匿名で密告すれば目的が果たせるというような「密告が横行する社会」であり、「余計なことは口にしないにかぎる」という風潮に覆いつくされる社会であり、これからの日本にとって最も大事であるはずの「自由で闊達な社会」*12の対極に位置する社会に他ならないだろう。

この法案は廃案にするしかない、というのが筆者の結論である。


#以上の説明でも、どうもよくわからないという方には、ぜひ日弁連のサイトを見ていただきたい。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/human/secret/about.html
→ここからダウンロードできる“エッ!これもヒミツ?あれもヒミツ!あなたも「秘密保全法」にねらわれるQ&A”というパンフレットは、かなりわかりやすくまとめられています。

*1:2013年09月03日付で内閣官房内閣情報調査室が公示したもの。その後の国会での審議でいくつか修正が加えられているものの、骨子に変更はないと考えられるので、以下、この「概要」をベースに論じることにする。

*2:筆者は法律の専門家ではないが、長年、公共事業の是非をめぐる行政訴訟に関わってきた経験があるため、行政官庁の手口等についてはかなり詳しくなっているかと思う。

*3:政府もマスコミの多くも、「安全保障」のために「必要な」法律であるかのように説明しているが、実際に法案に目を通してみると、このような杜撰な法案でその目的が達せられるなどと考えるのは、あまりにも幼稚であると思わずにいられない。

*4:法律である以上、「手段としての適合性」というのは最低限満たさなければならない要件であるはずだが、この法案には、この要件さえ十分に顧慮した形跡がない。一国の法律案として上程するに値しない劣悪なものだと言わなければならないだろう。

*5:法案の冒頭の「趣旨」にも、「特に秘匿する必要があるもの(=情報)」について「これを適確に保護する体制を確立した上で」という文言が出てくるが、この「体制」がどのようにすれば「確立」されるのかは、この法案自体からはほとんど見えてこない。この法案でそれができるなどと考えているのだとしたら、現代の社会が直面している課題について余程無知であるか、無能なのだろう。あるいは、この「体制を確立」ということは単なるお題目にすぎず、本当の意図は別のところにあるのかも知れないが、それならそれで、いくら巧妙であろうと、やろうとしていることはペテン師のそれでしかない。政府与党の国会議員諸氏も、法案の作成に関わった官僚諸君も、少しは恥を知るべきだろう。

*6:「内部統制」については、これらのサイトの説明を参照していただきたい。「「内部統制とは」http://ams-t.net/about/ また http://www.itmedia.co.jp/im/articles/0505/10/news112.html

*7:現時点で考えられるのは、安倍内閣には各省庁を適切にコントロールするだけの意思も能力もないということかも知れない。そのために、この法案のような“超法規的な”法律によって脅しをかけることしか思いつかないのだろうかと…。

*8:内部統制の観点からは、必要なのはむしろ適切な情報の開示であって、明確な原則もなく「秘密」が増殖することを助長するようなこの法案は、組織の腐敗や弱体化を招くだけでしかないという点に注意すべきだろう。筆者は国家の情報には一切の秘密があってはならないと主張するものではないけれども、秘密にする場合には、その種類や範囲と秘密にする理由を常に明らかにすることが原則でなければならない。その点のルール化こそが、まず求められていると思う。

*9:こうした条文に目を通していると、スターリン時代のチェコスロヴァキアにおける人権抑圧の実相についての貴重な証言であるムニャチコの短編集『遅れたレポート』(岩波書店)を思い浮かべずにはいられない。まさか、日本にこの作品が描いてみせたような状況がやって来ようとは思っていなかったが、もはや遠い国の過去の出来事にすぎないなどと考えることはできなくなってしまったようだ。

*10:ここで、近代法(とくに刑法)には「罪刑法定主義」という根本原則があるということを指摘しておきたい。簡単にいえば、「どのような行為が犯罪となるのかは、あらかじめ法律で定めておかなければならない」ということで、本来、これは権力の濫用をふせぐために考えられた原則なのだけれど、この法案はそれを完全に逆転させてしまって、「権力にとって不都合なあらゆる行為」を罰することができるようにするものになってしまっているという点に、くれぐれも注意していただきたい。つまり、この法案は、近代法の根本原則を否定するものであり、「法治国家」の基礎を危うくするものに他ならないということは、どれほど強調してもし足りないことである。「罪刑法定主義」については、こちらを参照されたい。http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E7%BD%AA%E5%88%91%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9 こちらも http://kotobank.jp/word/%E7%BD%AA%E5%88%91%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

*11:わかりやすい例を挙げるなら、実際にはやっていないにもかかわらず、電車の中で痴漢をしたと疑われて逮捕された人のことを考えてみればいい。勤めていれば職を失う可能性が高いし、たとえ解雇されたりしなくても、家庭が崩壊する危機にさらされる恐れは十分にある。ご存じの方も少なくないだろうが、これは実際にあったことである。

*12:言うまでもないだろうが、これは決して気分だけの問題ではない。日本の産業の国際的な競争力にも直結するイノベーションの活性化に直接にかかわる問題でもある。

「経済対策」の愚

もはや旧聞に属することかもしれないが、現行5%の消費税率が来春から8%に引き上げられることが決定された。筆者も、この3%の税率アップ自体は、大筋では致し方のないことだろうと考えている。しかし、制度設計のあり方という観点から考えてみると、この決定に至るまでのプロセスも実にお粗末であり、決定された中身も同様だといわざるをえない。

その最たるものは、ヨーロッパ諸国では広く行なわれている軽減税率が、まともに検討された形跡もなくこの決定に至っている(としか筆者には思えない)ということである。たとえば、標準税率が19.6%のフランスでも食料品や新聞・書籍の税率は5.5%であり、標準税率が20%のイギリスの場合は、食料品や新聞・書籍は0%である*1

これと比較すれば、0%のイギリスは言うまでもなく、今度の税率アップによって、食料品その他に関しては、日本の消費税率はフランス以上になってしまうわけだ*2

しかも、マスコミもほとんど話題にしないので忘れてしまっている方も多そうだが、すでに成立している消費税増税法では消費税率は15年10月にはさらに10%に上げるということになっている。つまり、このまま放っておけば、食料品や新聞・書籍等に関しては、日本はすでにヨーロッパ諸国よりも重税の国になることが確実であり、ごく近い将来に、さらにその重税度が増すことになるわけだ。

ここで、話をシンプルにするために、新聞や書籍については度外視して、問題を食料品だけに絞ることにしよう。そして、まず考えなければならないのは、そもそも、政治は何のためにあるのか、ということだろう。というのも、消費税の問題は(「経済対策」ではなく)典型的な経済政策の問題に他ならないし、一国の経済政策が、その国の政治・社会のあり方の根幹にかかわるものであることも、改めて言うまでもないことであるからだ。

しかし、今回の消費増税をめぐる論議では、この基本中の基本が、まったくなおざりにされているように思われる。端的に言ってしまえば、消費税についての先進国であるヨーロッパ諸国では常識になっている食料品への軽減税率を採用しないということは、この国は国民の「食べる権利」を尊重せず、まともに顧慮さえしないということを宣言するに等しい。

実際には、「国民」といっても決して一様ではなく、貧富の格差が広がるばかりなのは周知の通りであり、消費税率が多少上がったところで何の痛痒も感じず、まして「食うに困る」(=「飢える」)心配などとは無縁の階層が幅広く存在することも言うまでもない。しかし、強いて言うならば、そもそも政治は、そこまで豊かな人々のことはそれほど顧慮する必要はないのだ*3。けれども、年金だけで生活している高齢者に代表されるような貧しい階層の人々については、政治が「知らない」で済ますことは決して許されない。これだけ豊かさが溢れているような社会で、貧しい人々は「切り捨てて」しまえばよいとするような考えは、極めて未熟で貧しい考えでしかなく*4、もし政治がそうした考えに依拠するとしたら、それは政治というものの自己否定でしかないだろう。

現在の自公政権も、さすがにこの社会的格差の問題をまったく無視することはできないと考えたようで、消費税率を8%に引き上げるのにともなって、政府は総額5兆円規模の「経済対策」を年内にも策定するとしている。しかし、これまでに明らかになっている「経済対策」のメニューの中で、社会的弱者の救済にかかわるものとしては、低所得者に一人1万円を直接給付するといった、ほとんど子どもだましというしかない愚策だけであり、これで低所得層の窮状に歯止めをかけられるなどと考えているのだとしたら、愚かというにもほどがある。他に何の手段もないのならともかく、すでに述べたように、ヨーロッパ諸国ではすでに十分な実績があり、広く社会的な支持を得ている軽減税率の導入という手段があるのだ。今、この国の社会がどんな状況にあるのかを多少でもわかっているのであれば、軽減税率の導入に異をとなえる理由はないはずである*5

軽減税率の導入に反対する理由として、対象にする品目を絞り込む作業が大変であるとか、小売店等での事務処理が複雑になるといった意見があるが*6、ヨーロッパ諸国でできていることが日本ではできないなどというのはありえないことで、まさに笑止でしかない*7。また、購入額の乗数で考えると、富裕層にとってのメリットの方が大きくなってしまうというレポートなども発表されているが、これも、まさに木を見て森を見ない議論の典型である。

筆者は、軽減税率の導入(とくに、そのために要する事務的な作業等)が、とてもたやすいことだと言いたいわけではない。しかし、その前提である消費税率の8%への引き上げ自体が、国民一人ひとりの生活にとても大きな影響を及ぼす重大なできごとなのだ。その軽重が理解できない人間に、政治や経済について語る資格はないだろうと筆者は考える。与党の議員諸氏はもとより、民間のエコノミストに至るまで、目先だけの議論にウツツをぬかしてきた諸氏には大いなる反省を求めたい。


ケインズの「一般理論」の画像を掲げたことに、とくに深い意味はない。しかし、現在のこの国の経済政策や、とくにここで問題にした「経済対策」が、経済学の本来の目的や考え方から大きく逸脱してしまっていはしないか、考えてみるきっかけにはしていただきたいものである。

*1:概要は、駐日欧州委員会代表部のこの記事をご参照いただきたい。http://eumag.jp/question/f1012/ 記事にあるように、軽減税率にもまったく問題がないわけではない。しかし、日本はEUのような複数国家の連合体ではないので、制度設計ははるかに容易なはずである。

*2:ちなみに、ドイツでは標準税率が19%で食料品や新聞・書籍の税率は7%だそうだから、消費税率が8%になれば、日本の税率はその時点でドイツをも上回ることになる。

*3:顧慮する必要がまったくないわけではないが、それは彼らを保護すべき対象として見るのではなく、逆に、彼らが不当に必要以上の権力を手中にしたりすることがないようにチェックし、適切にコントロールするという観点からであるべきだろう。

*4:そうした考えは、いずれ社会的不安の増大を招くだけだろう。

*5:筆者も公明党が軽減税率の導入を提唱していることは知っており、もちろんこれは支持したい。ただ、問題はどこまでの覚悟があるかだろう。政権を離脱することも辞さないというのでなければ、しょせんは受けねらいのパフォーマンスとみなすしかない。

*6:この問題は未だに決着がつかず、自民党公明党の間での調整も難航しているようなので、一言述べておきたい。そもそも問題なのは、自民党には「やる気がない」ので「知恵も出ず」、「できない口実だけを探す」という悪循環に陥ってしまっているのではないか、ということだ。そしてその理由は、財務省の中でもあまり優秀ではない保守的な官僚の言いなりになりすぎているからではないか、と推測せざるをえない。筆者にとって不思議で仕方がないのは、これだけ大きな問題になっているというのに、関係者の誰一人として、流通の現場をよく見てもいないのではないかと思わざるをえない、ということだ。すでに焦点は食料品に絞られていると思うので、その範囲に限って述べておくならば、まず「生鮮三品」という言葉ぐらいは理解してもらわなければ困ると思う。これは当然、丸ごと軽減税率を適用すべきだと筆者は考える。その際、和牛は高級品だから別だろうなどというバカなことは言わせてはいけない。そして、もちろん、コメ、麦等の穀物類、塩、砂糖、味噌、醤油は当然このリストに加えるべきだし、生乳をはじめとする乳製品も同様だろう。…差し当たり、ガイドラインとしてはこれで十分なはずで、何千人という人員がいる関係省庁に作業がこなせないなどというバカなことを言ってもらっては困るというものだ。食料品以外では、医療費と新聞にも軽減税率を適用すべきかもしれない。この二つは、単に「軽減」ではなく、消費税率はゼロとすべきかと思う。「生鮮三品」については、こちらを参照されたい。 http://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E9%AE%AE%E4%B8%89%E5%93%81 =11月28日

*7:おそらく、この種のレポートが政府の判断に少なからず影響を与えたのではないかと思われる。「今後における消費税のあり方等について」http://www.kanzeikai.jp/index.asp?patten_cd=12&page_no=362 実務家からの提言としてかなり参考になるものだが、総論において「所得に対する消費税の負担割合を見ますと、低所得者ほど負担率が高くなるという問題があります」としているにもかかわらず、当時の結論としては給付付き税額控除制度を提言している。その主な理由としては、そもそもは消費者の負担増の問題であるにもかかわらず、このレポートではいつの間にか消費者のことが視点から抜け落ちて、事業者にとっての負担だけの問題にすり替わってしまっていることを指摘しておきたい。実務家の立場としては無理もないことかも知れないが、この点を見落としてしまうとしたら、政治家としては失格だろう。

君子は豹変するか?

ここで君子というのは、このところ呆れるほどにハシャギすぎている安倍首相のことではない。安倍氏よりは随分と地味で、ご存じない方のほうが多いかも知れないが、多少でも政治に関心のある方の間でならば“知る人ぞ知る”的な存在であると思われる保坂展人・世田谷区長のことである*1

保坂氏といえば、かつては社民党のエースとも目されていた人で、2009年8月の衆院選では、結局敗れはしたものの、自民党石原伸晃氏を相手にかなり善戦したりもした。その保坂氏が今、世田谷区の区長になっていることを意外に思われる方もいることだろうが、もちろん、これには様々な理由や事情がある。

その筆頭に挙げねばならないのは、他でもない、2011年3月に起きた、あの東日本大震災である。というのも、保坂氏が世田谷区長になったのは大震災直後の2011年4月に行なわれた世田谷区長選によってだからであり、この選挙戦は、まさしく、あの大震災と福島第一原発の事故の余波に国中が揺れていた中で行なわれたものだったからだ。

そして、当初は区長選への出馬に乗り気ではなかったと思われる保坂氏に立候補を決意させ、選挙戦の実務のほとんどまでも担ったのは、世田谷区内での公共事業のあり方に疑問を抱き、その見直しを求める住民運動に参加している市民たちのグループだった。そのため、選挙戦の間、保坂氏は“大規模公共事業の見直し”を公約として掲げていたのであり、保坂氏が区長の座に就くことになったのは、この公約がそれなりに支持されたからであるのはたしかだろう*2

しかし、その保坂氏が、区長就任後は、にわかに変わり始めたのだった。

つまり、選挙戦で公約としていた“大規模公共事業の見直し”について、決してその道すじをつける機会がなかったわけではないにもかかわらず、保坂氏は次々と、これまでの計画案を追認・黙認するような判断をくり返すようになったのだ*3。幾分かは注文をつけるかのような姿勢も皆無ではなかったにしても、都市計画の問題としては微調整レベルのことばかりであり、「見直し」というにはほど遠く、筆者にはむしろ、保坂氏は一転して「推進」の立場に転じたのではないか*4とさえ思われた*5

端的に言って、これは保坂氏自身にとって不幸なことであるし*6、世田谷区民にとっても不幸であるし*7、さらに、巨大な公共事業のツケを背負わされることになる日本の国民全員にとっても、実に不幸なことであると筆者は思う。

さて、実は今日、この大規模公共事業が進行中の舞台でもある下北沢で、保坂氏が参加するイベントが開催され*8、保坂氏は下北沢の現状や今後についてのスピーチを行ない、さらに、街の再開発をめぐって、住民の代表や識者たちとのパネルディスカッションにも参加することになっている*9

筆者としては、このイベントで、保坂氏に、どうか豹変してほしいと願うばかりだ。いや、単に都市計画や公共事業だけの問題ではなく、日本における民主主義の生死を左右する場としても、保坂氏には、これを機に豹変してもらわなければ困るのだ*10

みなさんにも、どうかご注目いただきたい*11

*1:そもそも、「区長ごときが、どうして君子なの?」とお考えになる方もいることだろう。しかし、世田谷区は人口が約89万人、世帯数も45万近くある東京23区の中でも最大の区であり、職員数も5000人以上という巨大自治体である。そのトップである区長の権限と責任は、漠然と考えられている以上に大きいものがあると筆者は思っている。もちろん、筆者は「君子」という語の「徳が高く人としての品位がある」という語義がそのまま保坂氏に当てはまると言いたいのではなく、ここでは、よりストレートに「人の上に立つ者」というほどの意味だと思っていただければ幸いだ。

*2:得票の中身を分析すれば、従来からの社民党支持者の票も大きかっただろうが、それだけで当選できたとは考えられない。

*3:単に「大規模公共事業」といっても、世田谷区外の人には何のことかわからないだろうし、実際には区民でもその実態を知らない人のほうが多いだろう。具体的には、東京でも屈指の巨大道路である外郭環状線(いわゆる「外環」のこと)の建設、二子玉川の再開発、京王線の高架複々線化、下北沢の新規道路建設を含む小田急線の連続立体交差事業の4つである。いずれも、まさに大規模というしかない巨大な公共事業で、その大きさゆえにかえって一般の市民には“見えにくい”ものになっている嫌いがある。その一つである下北沢の道路建設問題については、非常に密度の高い裁判が行なわれていて、詳細な記録を参照できるので、ぜひご覧になってみていただきたい。http://www.shimokita-action.net/archive/x_y1_y2_z_shutyoushomen.html

*4:公平を期すために付言しておくならば、ここで問題にしている公共事業は、世田谷区内で進められつつある事業ではあるけれども、世田谷区はトータルな事業主体であるわけではない。したがって、区長だからといって簡単に「見直し」ができるような直接の権限があるわけではない。しかし、原発も地元自治体の同意がなくては稼動できないように、大規模な公共事業に関しては地元自治体=住民の意向が尊重されるべきなのが当然であって、必ずしもそうなってはいないこの国の現状は、それこそ大いに“見直され”なければならないと筆者は考えている。

*5:その経緯については、世田谷区議会の木下泰之議員のブログに詳しいので、ぜひご覧いただきたい。 http://mutouha.exblog.jp/

*6:保坂氏はかつて、国会議員を中心に結成された「公共事業チェック議員の会」の事務局長でもあった。

*7:保坂氏のこれまでの“実績”の中でも、世田谷区民にとってとりわけ深刻なのは、「川場移動教室」の問題への対応だろう。これも、区外の人には何のことかわからないだろうが、世田谷区は1981年に群馬県川場村と“縁組協定”というものを結んでおり、これをきっかけにして、区立小学校の5年生を2泊3日で川場村に行かせるというイベントを毎年行なっていて、これを「川場移動教室」と呼んでいる。いわば一種の林間学校で、何もなければ、子どもたちにとっても楽しいレクリエーションの機会であって、取り立てて問題にすべきことでもない。しかし、この川場村が、福島第一原発の事故によって洩れ出た放射性物質によるホットスポットになってしまったため、区議会ではもちろん、保護者の間からも、この移動教室は見合わせてはどうかという声が起きた。にもかかわらず、区長となった保坂氏が出した答は「移動教室はやめない」というものであり、その頑なさには、筆者もただ驚き呆れるしかない。この問題について、世田谷区はこのように説明している。http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/103/128/453/d00036217.html こちらも参照されたい。http://nikotama.keizai.biz/headline/573/

*8:詳しくはこちらで。 http://shimokita-voice.tumblr.com/

*9:このパネルディスカッションがどのようなものだったかについては、長く下北沢の地誌を研究されている“文化探査者”きむらけんさんが紹介して下さっているので、ご参照いただきたい。 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51913466.html#more

*10:その後、保坂氏は筆者が期待したのと正反対の方向に豹変しつつあると疑わざるをえない事態になっている。世田谷区は今、「町会・自治会参加促進条例」というものを制定しようとしているというのだ。まだ区議会に正式には提出されてはおらず、「素案」が示された段階らしいが、その概要を見ただけでも、この条例案を提出すること自体が民主主義への挑戦であり、それを否定することになる…と考えざるを得ない。これは、決して世田谷区だけの問題として看過できることではない。保坂氏は、この条例案の提出を見送ることを決断すべきだろう。この問題についても、前出の木下議員のブログが詳しい。http://mutouha.exblog.jp/ 同議員がツイッターで「私は町会(町内会)加入促進条例に反対ですが町会の存在自体に反対をしているわけではありません。行政・町会の相互依存関係を断ち切ることを求めているのです」と述べていることにも注意したい。

*11:その後、この拙文のタイトルは不適切だったかも知れない…と思わずにいられないような事実が明らかになってきた。保坂氏は来月、資金集めのパーティーを開催することになっているのだが、その舞台裏が実にキナ臭く、驚くべきものなのだ。百聞は一見に如かずだと思うので、この世田谷区議会のネット中継サイトで、10/15に行なわれた決算特別委員会での大庭正明区議の質疑の録画を、どうかご覧いただきたい。http://www.discussvision.net/setagayaku/index.html まず左側の「録画配信」のメニューの「決算特別委員会」をクリックすると、その下のウインドに10/15の「補充質疑・採決の収録内容を表示」というメニューが出てくるので、これをクリックすると、ページ右側のウインドに収録内容が出てくる。そして、この収録内容の「4」、「民主、み・行」というところの「再生」をクリックすると再生が始まる。大庭議員の質疑は23分ぐらいから。これを見ると、保坂氏はとても「君子」と言えるような人物ではないと思えるけれども、あえて当初のままにしておく。=10/17

「あまちゃん」讃

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が、いよいよ最終盤を迎えようとしている。このドラマが“あまちゃん現象”といっていいほどの人気を集めていることについては、軽快でありながら独特のクセがあるテーマ曲を始めとして、大友良英氏による音楽の魅力が大きく寄与していることは疑えない*1

しかし、とくに調べたわけでもないけれども、ドラマの根幹となっているシナリオの魅力なり卓抜さについては、必ずしも広く理解されてはいないように思えるので*2、手短かに筆者の見解を述べておきたいと思う。

たとえば、今出ている「MUSIC MAGAZINE」誌の9月号で、篠原章氏は、「あまちゃん」は自分にとって「これまでのドラマとまったく別格の、“革命的な”ドラマである」と述べており*3、森直人氏は「宮藤官九郎の見事な成熟」というタイトルで「あまちゃん」について論じている*4。筆者も、このお二人の趣旨には異論はないものの、「あまちゃん」のどんなところが“革命的”であり、どんな点に作者の“成熟”を感じるのかということに関しては、残念ながらもう一つピンとこなかった。

筆者が思うに、「あまちゃん」が日本のTVドラマとして“革命的”であるとすれば、それは何よりも、(たしかに能年玲奈嬢が演じる天野アキはとても魅力的で、ドラマの人気は、このヒロインの魅力を抜きには語れないとは思うけれども)このドラマでは、決して少なくはない登場人物たち相互の関係性に“批評性”が不可欠のものであるかのように組み込まれていて、そのようなものとして登場人物たちの関係性が描かれているということにこそあるのではないだろうか*5。つまり、「あまちゃん」は、たしかによくあるような“一人の女の子の成長の物語”でもあるけれども、それと同時に、あるいは「それ以上に」、“集団の劇”でもあるという点に際立った特色があると筆者は考えている。*6

この“批評性”という言葉だけでは、何のことかわからないという方もいるだろうから、もう少し具体的に見てみよう。たとえば、荒川良々が演じている駅員の吉田などは、最初に出てきた頃にはとくに、見方によってはかなりのワルであり、なかなか“毒のある存在”だと思うのだが、“批評性”というのは、この“毒”のことだといってもいい。そして、吉田にかぎらず、「あまちゃん」では、登場人物の誰もが、濃淡や質には差があっても、多かれ少なかれこの“毒”を持っていて、相互に関わりあう中で、この“毒”が中和されて消えてしまうこともあれば、時には素晴らしい効き目のある薬に変わってしまうこともある。しかも、通常のドラマであれば、こうした“毒”の化学変化ともいえる現象は何回に一度あるかないかであるのに、「あまちゃん」では、毎回必ず、それもほとんど途切れることがないかのように変化が起こり続けるのだ*7

ここまでいえばおわかりいただけたかと思うけれども、ここで筆者が“毒”といっているものは、登場人物相互のコミュニケーションを阻害するものではなくて、むしろ逆にそれを活性化し、その場にいる人物たちの関係性を強めるものとして現れている(と筆者は思うのだが)ということに、どうか注目していただきたい。日常の言葉でいえば、“冗談”であったり“ウイット”がその典型だといっていいだろうけれども、作者・宮藤官九郎氏が「あまちゃん」の中で駆使しているのは、決して“冗談”(=ギャグ)だけではない。今やすっかり流行語になっている「じぇじぇじぇ!」をはじめ、彼は、これでもかと思うほどに多彩な手法を使いこなして、とてもバイタルな関係性が生まれる“場”を描き続けている。だから筆者には、この“場”こそが「あまちゃん」の本当の主人公なのではないか…とさえ思えてしまうのだ。

世の中にはいろいろな人たちがいるもので、筆者のように「『あまちゃん』は面白い!」と公言してはばからない人間がいる一方で、「騒がしいばかりで、付いて行けない」と言う人や、「単なるオフザケじゃないの?」と言う人も少なくないようだ*8。けれどもそれは、筆者に言わせれば、やはりかなり皮相な見方であるように思えてならない。先にふれた森真人氏も指摘しているように、「あまちゃん」には現代のドラマとしての十分なリアリティがあるし、一見“冗談”のように聞こえるセリフが、次の瞬間には血の出るような言葉に変わっていたりするということも、よくあるからだ。そして、もちろんそこには、作者の肉声が投影されていたりもするだろう。

筆者は人の好き嫌いにまで口出ししようとは思わないし、ドラマの受取り方は、それこそ人それぞれであって当然だと思うけれども、「あまちゃん」が素晴らしいドラマであることはまったく疑いようがないと思っている。あまり見たことがないという方には、これからでも遅くはないので、少しは続けてご覧になってみていただきたいものだ。

*1:この点については、「MUSIC MAGAZINE」誌が2013年9月号で「音楽から見た『あまちゃん』」として特集を組んでいるので、ぜひご覧いただきたい。http://musicmagazine.jp/mm/index.html

*2:その後知ったのだが、この人の分析はさすがだと思う。http://www5.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/archives/40558.html こちらも参考になる。http://mantan-web.jp/2013/05/06/20130505dog00m200010000c.html

*3:同誌37p

*4:同誌46-47p

*5:今読んでいる本に、ここで筆者が述べようとしたことに通じる考え方が述べられているので紹介しておきたい。哲学者の國分功一郎氏がジル・ドゥルーズの考えについて述べた言葉なのだが、「思考のはじまりには不一致があるのだ…人にものを考えさせるのは、自分と一致しない『敵』の『不法侵入』だ」と。中沢新一國分功一郎『哲学の自然』63-64p=9/13

*6:よりわかりやすい言い方をするなら、通例のドラマでは考えられないほどに、登場人物一人ひとりの“キャラが立っている”ということだと言ってもいいだろう。もちろん、ドラマであるかぎり、魅力的な人物を登場させたいと思わない作者はいないだろうが、この「あまちゃん」ほど、それが成功している例は稀だと思う。強いていえば、ほとんど“シェイクスピア並み”であり、実際に出演した役者たち一人ひとりが、このドラマほど“男を上げ”たり“女を上げ”たりしているのは珍しいと思う。=9/24

*7:実は、TVドラマという枠を離れて演劇の世界に目を向ければ、こうした“批評性”なり“毒”は決して珍しいものではなくて、それなしでは演劇というものが成り立たないといってもよいほど、演劇にとっては本質的な要素でもあるのだけれど、それを、半年の間、ほぼ毎日放映される朝ドラという器の中に盛り込み続けるというのは驚くべきことで、このシナリオを書き上げた宮藤官九郎氏の才能には、ただ脱帽するしかない。

*8:その後、ネットを中心に、「あまちゃん」はなぜ原発事故のことにふれないのか?という疑問を持つ人が相当に増えたようだ。筆者の友人でもある志田歩氏もその一人だhttp://shidaayumi.jugem.jp/?eid=731。 この志田氏の疑問に対して、先にふれた篠原章氏が9月17日に自身のfacebook上でレスしておりhttps://www.facebook.com/akira.shinohara1?hc_location=stream 、筆者の見方も篠原氏とほぼ同じだといっていい。筆者も含めて、大の大人が寄り集まって考えてみても確実な対処法が見つからないような現在の福島の状況について、「あまちゃん」のようなドラマに何らかの解決策を求めたりするのはそもそも無理な話だし、それでも強いて登場人物の誰かに福島のことに言及させたりすれば、篠原氏が述べているように、たちまち「それはリアルではなくなる」し、かえって「安っぽくなってしまう」…というのが筆者の考えだ。もちろん、志田氏のような問題提起は大いに歓迎すべきことである。=9/24

ええじゃないか?

まずことわっておきたいが、筆者は別にスポーツが嫌いだったりするわけではない。スポーツが自分の日常の一部であるような生活を送っているわけではないけれども、野球であれサッカーであれ、素晴らしいプレーには称賛の声を上げることを常としている。

だから、今回、東京開催が決定した2020年のオリンピックについて、各競技の選手たちが招致活動に熱心だった*1ことは、無理もないことだと思う。しかし、今回の決定までのプロセスを見ていると、本来の当事者である選手たちをさておいて、その「周辺」があまりにも肥大し、そのことが大きな歪みを生んでいるのではないか…と強く感じずにはいられなかった。

もちろん、選手たちも霞を食べて生きているわけではなく、この日本でも、大変きびしい環境に置かれている競技(者)も少なくないことも承知している。だから、選手たちが競技の普及やPRに努めることも、必ずしも「余技」とは言えないのかも知れない。しかし、今回のプロセスには、「これはおかしいのではないか?」と思えることが多すぎる…というのが筆者の率直な感想だ。

その最たるものが、9月9日の最終プレゼンテーションでの安倍晋三首相の発言だ。彼は、福島第一原発の汚染水問題についてIOCの委員たちから質問されて*2、こう答えている。

「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内の中で完全にブロックされています。*3福島の近海で私達はモニタリングを行っています。その結果、数値は最大でもWHOの飲料水の水質ガイドラインの500分の1であります。(中略)そして我が国の食品や水の安全基準は、世界でも最も厳しい、厳しい基準であります。食品や水からの被曝量は、日本どの地域においてもこの基準の100分の1であります。つまり、健康問題については、今までも現在もそして将来も、全く問題ないということをお約束をいたします。」*4

安倍氏は、ここで述べていることが「事実」であると強調しているけれども、残念ながら、これはほとんど真っ赤なウソだし*5、もし安倍氏が、ここで自分が述べたことを本当だと信じているのだとしたら、彼には科学の領域に属する問題について的確に理解するだけの能力がない、ということにならざるをえない*6。あるいは、「政治にはウソがつきもの」であって、安倍氏(とその周辺の人間たち)は今回、「目的は間違っていないのだから、この程度のウソは許される」とでも考えたのかも知れないが、平和と友好が大前提であるべきオリンピックの開催地を決定する場に、これだけ重大なウソを持ち込むことが許されてよいのかといえば、明らかにノーだろうと筆者は思う。

もちろん、ここで筆者がどれほど疑問を呈そうと結果がくつがえるわけではなく、よほどの天変地異でも起こらないかぎり*7、2020年に東京で二度目のオリンピックが開催されるということが変わることはない。また、単に勝敗だけが問題なのだとすれば、今回、東京=日本が“招致レースに勝った”ことは事実であり、そのかぎりでは、実に“うまくやった”のだということも否定できない。しかし、今回のプロセスを知れば知るほど、そこで行なわれていたことの多くは筆者の感覚ではあまりにも“あざとい”ことで*8、とてもではないが、結果だけを素直に喜ぶことはできない*9

今回の結果は、安倍首相や猪瀬都知事にとっては、まさに“してやったり”で、“文句を言うことなどもってのほか”なのかも知れないが、一般の市民はただ“ええじゃないか”と踊っていればよい…というのだとしたら、日本の未来は暗いと思う。

*1:のかどうかも、実は簡単には断定できない。選手たちは本来、競技者としての能力を高めることこそが「本職」であって、今回のような招致活動への参加は、あくまでも「余技」に属することである。だから、実はこの箇所も「積極的に参加した」と書きたかったのだが、それではあまりに正確さを欠くことになるだろう。

*2:これも、ひとまず筆者の推測だが、質問者が記者たちではなく、汚染水問題については基本的に素人であるIOCの委員たちであることを、安倍首相とその周辺は、十分に「計算に入れていた」に違いない。

*3:最新のニュースによれば、これと寸分違わないような文言を、茂木経産大臣も米国の州知事たち相手に語ったようだ。おそらく同省の官僚の作文なのだろうが、この作文は単に悪質というレベルではなく、実に犯罪的なものだ。専門家諸氏からの批判は必至だろう=9/9

*4:“OKOS”からの引用。表記は多少変えた。全文もここで読める。http://okos.biz/politics/abeshinzo20130909/

*5:http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130822/dst13082222070017-n1.htm

*6:内田樹氏が“Nature”誌の編集委員の見解を紹介して下さっているので、どうかお読みいただきたい。http://blog.tatsuru.com/2013/09/06_1112.php

*7:筆者が述べるまでもなく、その可能性は決して小さくはない。

*8:筆者は、何にでもケチをつけたいわけではない。たとえば、高円宮妃殿下のスピーチなどは、それ自体としてはとても立派なもので、間違いなく賞賛に値するものだと思う。けれども、安倍首相の大ウソは妃殿下のスピーチにも大きな影を落とすことになってしまったのではないかと危ぶまれる。

*9:詳しく論じるのは控えておきたいが、現在の自公政権の下では、今回の招致決定によって首都圏で乱開発が多発し、“土建国家”的体質が完全に復活する恐れも大きい。いうまでもなく、その場合、国の財政はいよいよ破局的になることだろう

江戸を遠く離れて

盆の帰省の際、少し足を伸ばして、福島県立美術館で開催されている「若冲が来てくれました」展*1を見てきた。

若冲が素晴らしいことは、門外漢の筆者などが改めて口を出すまでもないと思うけれども、この美術展の見どころは若冲だけに限らないので、感じたことの一端をここに記しておきたいと思う。

この美術展で、若冲の他に目を惹かれる作品としては、鈴木其一の「群鶴図屏風」や長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」を挙げることには、まず異論がないだろう。

けれども、この美術展で筆者にとってとくに印象深かったのは、酒井抱一の「十二ヶ月花鳥図」だった。「花鳥図」というのは、日本画にとってはおなじみの、むしろ“ありきたり”すぎるといってもいいテーマであり、この酒井抱一の「花鳥図」も、鈴木其一や長沢芦雪の大作に較べれば、かなり地味に見えることは否めない。

しかし、“何が”描かれているかを確認したりするだけでは、この「花鳥図」の素晴らしさにふれたことになるのかどうか、大いに疑問がある*2。やはり、作者が“いかに”描いているのかに目を向けてこそ、初めて見えてくるものがあるに違いない。

そして改めて酒井抱一の「十二ヶ月花鳥図」に目を向けてみれば、その繊細にして優美な筆致、軽やかでいながら大胆な構図など、この作品がどれほど玩味すべき滋味に満ちているかに、きっと気づいていただけることだろう。ただし、この「花鳥図」の場合はとくに、画集等だけでその魅力を感得することは難しいと思う。同展は来月下旬まで開催しているので、できることならぜひ福島まで足を運んで、実際の作品に接してみていただきたい。

それにしても、この酒井抱一の「十二ヶ月花鳥図」で驚くべきことは、その筆遣いがいかにも自由で、およそ古さを感じさせないこと、まるでつい昨日描かれたばかりといってもよいほどに“モダン”でさえある、ということだ。筆者は、日本の近代150年の間にも素晴らしい作品が描かれてきており、その数も決して少なくはないことを否定するものではないけれども、だからといって、この「十二ヶ月花鳥図」がすでに“乗り越えられた”などとはまったく思わない。この作品は、洋画や日本画といった技法の違いを超えて、絵画というものが到達しうるある“高み”に達しているので、後世に描かれた作品と比較して優劣を論じたりすること自体、いかにも虚しいことではないかと思うのだ。

さらに言えば、この「十二ヶ月花鳥図」は、一つの美術作品であるというだけではなくて、酒井抱一が生きていた時代=世界の“自然”についての見方や、それとの接し方を伝える第一級の資料でもあるはずなので、その観点からわが身をふり返ってみると、明らかに酒井抱一たちの時代=江戸の方が洗練されていて、われわれ現代の日本人というのは、彼らに較べるとあまりにもがさつかつ野蛮になってしまっているのではないか、と疑いたくもなってくる。

最後に、若冲その人の作品についてもふれておくならば、この美術展の白眉といっていい「鳥獣花木図屏風」は、そのままモダンアートであると思えるような驚くべき作品であり、どうしてこんな作品が生まれたのかを考えるためだけにでも、見ておいて損はない。

さああなたも、どうぞ福島へ!

*1:http://jakuchu.exhn.jp/

*2:筆者が足を運んだ日にも、この美術展には多くの子供たちが来場していた。当然のことだが、筆者には子供たちが美しい作品にふれることの意義まで否定したりするつもりはまったくない。

腑に落ちない

今朝のNHKのニュースで、アナウンサーが開口一番、今回の参院選の争点は「ねじれの解消」だ…と語っていた。が、これは政権与党である自民党公明党の主張であって、野党がそんなことを主張するはずもない。これでは、NHKは与党のプロパガンダ機関になったようなものだ。いまさらではあるにしても、何とも嘆かわしい。

今エジプトで起きている政変について、この国での報道は、「クーデター」と評価することで、ほぼ足並みが揃ったようだ*1。しかし、エジプトの状況は、この一語で断罪できるような単純なものだとは到底思えない。それでも「クーデター」論がまかり通ってしまうのは、まず米当局が認定したので、それに追随していればいい、ということでしかないのではなかろうか。

元CIA職員のエドワード・スノーデン氏も、今やすっかり犯罪者扱いされているが、米当局が100%正しくて、スノーデン氏個人だけに非がある…という見方は、おかしいのではないか。もちろん、彼自身は犯罪者扱いされることは覚悟の上で米当局がやっていることの暴露に踏み切ったに違いないが、強者の尻馬に乗るような報道ばかりというのは、どうにも気持ちが悪い。この件について、オバマは明らかに判断ミスを犯していると筆者は思うが、その根底には「CIAを(もちろんNSAも)敵に回したくない」という思いがあるように思われる。この点に触れた報道なりコメントがさっぱり見当たらないのも、どうも物足りない。

金子勝氏がつとに指摘していることだが、東京電力はすでに完全に経営破綻状態に陥っており、福島第1原発事故を処理する当事者能力も喪失している。にもかかわらず、どうしてこの事実があまり問題にもされないのか、理解に苦しむ。福島を、そして東北全体を切り捨てたところで、何が悪い…とでも思っているのだとしたら、それはあまりにも皮相だというしかない。

*1:TBSの「Nスタ」の堀尾正明キャスターが疑問を呈していたことは明記しておきたい。