姜泰煥という人


このほど、韓国のサックス奏者・姜泰煥(カン・テーファン)さんの日本でのライブツアー*1に少しだけ関わらせていただいて、8日間にわたるツアーの内、6月22日と26日の演奏を聴かせていただくことができたので、ごく簡単に感想だけでも記しておきたい。

まず22日は、甲府「桜座」でのツアー初日で、姜さんのソロ演奏に田中泯さん*2が舞踊で対峙するという趣向だったが、この日はまず、たった1本のアルトサックスから姜さんが生み出す音色の多彩さと響きの深さに驚いていると、やがて姜さんはいくつかの旋律を奏でて、それを次々に変奏して行くという、オーソドクスなジャズのようなスタイルでの演奏も聴かせてくれたりして、驚きと喜びに満ちた時間はたちまちに過ぎてしまったのだった。プロフィールだけ見ると、姜さんは何だか実験色ばかりが強くて取り付きにくい演奏をする人なのではないか…と思う人も多そうだけれども、少なくともこの日の演奏に関していえば、そんなことはまったく感じられず、まさに“自然体”というしかないようなスタイルで、とても包容力の大きな音楽を聴かせて下さった一夜だった。

そして26日は、静岡の「青嶋ホール」でのパーカッショニスト土取利行さん*3とのデュオだったが、この日の二人の演奏は、何とも凄まじかったというしかない。まず演奏をリードしたのは土取さんで、それはお互いの楽器の特性からも当然の入り方だったにしても、この日の土取さんの燃焼度は驚くべきもので、素晴らしい速度感で静と動、強と弱を自在に行き来して無窮につながるかのような音の磁場を生み出すその姿は、まるで阿修羅のようにも見えた。そんな土取さんを、姜さんは悠然と受けて立ち、二人の音が紡ぎ合わされて生まれた音楽は、無の空間の中に浮かび上がる絵巻物のようでもあった。ただ、特筆しておきたいのは、二人が紡ぎ出した音楽はとても密度の高いものだったにもかかわらず、およそ窮屈さとは無縁で、そこには常に陽が差したり風が流れているかのように感じられたということだ。それは、この二人の稀有のアーチストが互いを存分に認め、信頼し合えるからこそ可能な境地だということは疑いないだろう。演奏の技法やアイデアについては、よくポケットや引き出しにたとえることがあるけれど、土取さんの演奏には、いったいどれだけポケットがあるのだろうと思わされたし、しかも、その一つ一つを出し入れする速度が、およそ尋常なものではなかった。一方、ベースとなるテンポこそ比較的ゆったりしてはいても、その点は姜さんも同様だったのは言うまでもない。
さらに言えば、おそらくは土取さんが紡ぎ出すリズムに触発されて、中盤以降の姜さんの演奏にはアフリカンなフレーバーが強く感じられたのだけれど、これはどこかから借りてきたというようなものではなく、姜さんの体内から湧き出したものだったに違いない。そして、よく言われる「音楽は国境を越える」という言葉は、まさにこの日の二人のような演奏にこそ使うべきではないだろうかと思った。

姜さんは1944年のお生まれで、現在69歳だとおっしゃっていたが、姜さんの演奏は実にピュアで力強く、年齢による衰えなどはまったく感じられない。また、姜さんはタバコは吸われるけれども、酒は飲まず肉も召し上がらない。しかも、見ていてもかなり少食で、連日のハードなステージを平然とこなしておられたのは、まさに驚きだった。

最後に、今回お別れする際に、姜さんは2011年にレコーディングされた2枚組のCD『素來花Sorefa』を筆者に下さった。*4早速、二度三度と聴かせていただいて、素晴らしい作品だということをしみじみと感じている。しかし、それでもなお、姜さんのライブはさらに素晴らしいということを記しておきたい。残念ながら、今年のツアーは終わったばかりで、次に日本でお聴きできるのは多分来年になりそうだけれど、韓国のというよりも、アジアの至宝というべき姜さんの比類のない音楽を、次回はより多くの方にお聴きいただきたいものだと思う。

*1:http://breath-passage.com/

*2:田中泯さんについては、説明の必要はないだろう。近年は、2010年のNHK大河ドラマ龍馬伝』での吉田東洋役など、映画やドラマでも広く活躍されている。

*3:http://homepage2.nifty.com/w-perc/

*4:http://breath-passage.com/kth/kth_discog.html このブログも参考になるだろう。http://goldenege.exblog.jp/tags/%E5%A7%9C%E6%B3%B0%E7%85%A5/

裁判といふもの

今度の木曜日になるが、3月14日に、東京地方裁判所で、注目したい裁判の28回目の法廷(法曹用語では「口頭弁論」という)が開かれる。*1

乱暴を承知でひと口に言ってしまえば、この裁判は、若者に人気のある街として知られている東京・世田谷の下北沢の街並みを大きく破壊してしまう新しい道路の建設計画の是非を問うものだ。*2

下北沢といえば、「路地の街」として知られていて、「迷路のようだ」などと言われることも多いのだけれど、長年通い慣れた筆者には、それほど無秩序ではなくて、2006年に行政が再開発の呼び水となるような「地区計画」を決定してしまうまでは多くの建物が3、4階程度で揃えられていたこともあって、むしろ、この国には珍しい独特のバランスや統一感があることこそが、下北沢の街並みの大事な魅力の一つなのではないか、と感じていた。

とくに、小田急線の北側の街並みなどは、幅は広くはないけれども、道路もほぼ碁盤の目のように交差していて、とても上質な都市的空間が形成されているといってよいと思うのだけれど、計画されている新しい道路は、約26mという幅でその中心部もつぶしてしまうというあまりにも乱暴なものなので、「この道路計画は間違っているから、事業の取り消しを命じてほしい」というこの裁判の趣旨に賛同して、微力ながら支持させてもらっている。

ところで、裁判というものは大きくは民事と刑事に分けられるのだけれど、この裁判は、地域の住民の方たちが原告で、国(国土交通省)・東京都・世田谷区という“行政の団子三兄弟”が被告になっているので、分類すると「行政訴訟」というものになる。つまり、警察のお世話になるような事案でもなければ、土地や財産をめぐる争いといった民間人同士の損得を扱うわけでもない第三の類型といってよいと思うのだけれど、問題になるような事業は一般に規模がとても大きいことを始めとして、知れば知るほど、この裁判のような「行政訴訟」の結果は、これからの日本の社会がどうなって行くのかを大きく左右するに違いないと実感されてくる。

14日には筆者も傍聴に行く予定だけれども、この国の公共事業のあり方に疑問や関心をお持ちの方はもちろん*3、「裁判ってどんなものなんだろう?」という素朴な興味をお持ちの方々にも、ぜひ傍聴してみていただきたいと思う*4

*1:2013年3月14日(木)午後3時からで、法廷は霞ヶ関の裁判所1階の103号大法廷です。

*2:この裁判についての詳細は、原告の団体である「まもれシモキタ!行政訴訟の会」のHPhttp://www.shimokita-action.net/を見ていただきたい。

*3:とりわけ、都市計画に関心をお持ちの方にとっては、この裁判はとても大きな意味を持つのではないかと思う。このページからhttp://www.shimokita-action.net/archive/x_y1_y2_z_shutyoushomen.htmlこの訴訟のこれまでの文書をダウンロードできるけれども、とくに、平成24年12月に原告側弁護団が提出した「旧都市計画法の変遷とその検討の意義」について論じている準備書面(46)には、ぜひ目を通してみてほしい。

*4:次回の第29回口頭弁論は、6月13日(木)の午後3時30分からに決まりました。法廷は、第28回と同じ東京地裁の103号大法廷です。ぜひ傍聴を!

へうげもの

人によっては「今さら」の話題になるかも知れないが、「へうげもの」が面白い。

そもそもは講談社コミック誌「モーニング」で2005年から連載が始まっていたようだが*1、筆者は比較的最近、NHKが放映しているアニメ*2を見て知った。

実際にコミックを手に取ってみると、扱っている題材は実に多彩で、この作品の面白さを伝えるのはなかなか骨が折れるのだけれど、しいていえば、“危急の時における笑い”に目を向け、その意味を再認識させるだけの力が、この作品にはある、ということだろうか。

ただし、「笑い」といっても実は様々であって、この作品が描いている「笑い」は西洋流のユーモア等とは明らかに異質なものであるように思われる*3。この作品は戦国時代末期の社会とそこに生きた武士たちの生き様を題材にしているが、「へうげもの」という作品名がおのずと語っているように*4、そこに日本的な笑いの源流の一つを探ることが、この作品全編のモチーフであるといってもよさそうだ。
これは、相当に野心的な試みだといってよいと思うが、作者・山田芳裕氏は実に見事にそれをやってのけているし、NHKのアニメの出来栄えも立派なものだ。*5

大人の鑑賞にも資する上質のエンターテインメントとして、この一文をご覧いただいた方には、ぜひご一見いただきたいと思う*6

*1:http://morningmanga.com/lineup/show?id=13

*2:http://www9.nhk.or.jp/anime/hyouge/

*3:とはいっても、もちろん、笑いとして共通する点も少なくないことはいうまでもない。

*4:「へうげ」は「ひょうげる」という動詞からの派生語で、「へうげもの」は「おどけた男」というほどの意味になる。

*5:アニメの放送はすでに終了しました。

*6:へうげもの」の時代背景を知るには、海音寺潮五郎氏の「戦国風流武士 前田慶次郎http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4167135426.htmlを併せて読まれるとよいだろう。強くお薦めしておきたい。

事の軽重

昨年12月に、大阪市立高校の男子生徒が教師から度重なる暴行を受けていたことを記した遺書を残して自殺した問題について、世論もだいぶ落ち着いてきたようだけれども、やはり一言しておきたい。

ここで考えてみたいのは、橋下大阪市長が、この男子生徒が通っていた桜宮高校の体育科について、今年の入試中止を表明したことに対するマスコミや父兄、さらに生徒たちの反応についてだ。
結論から言ってしまえば、筆者は、この橋下市長の入試中止表明は、極めて当然のことだと考える。まだ同校の部活動の場で実際にどのような「指導」が行なわれていたのかの全容が明らかになっているわけではないけれども、男子生徒が所属し、キャプテンをつとめていたバスケット部の顧問の教師が、この生徒に度重なる暴力をふるっていたことは疑いないようだし、この暴力が男子生徒の自殺の直接の原因になったことも、ほぼ確実であるようだからだ。
この点について、橋下市長自身がTVにも出演して語っていたが、この事実は極めて重いし、市の行政全般を預かる身として、市長はその責任を負うべき立場にあるということも、われわれは理解すべきだろう。

ところが、これについて父兄や生徒たちから上がった声は、筆者にとってはかなり驚くべきものだった。
要点だけの紹介になるが、大きくは「自分たちはすでに随分傷つけられたのに、さらに傷つけるつもりか」ということと、「受験生に罪はない」という2点だといってよいだろう。そして一部のマスコミは、こうした声を、あたかも当然であるかのように報じて、バックアップする役割を演じたのだった。*1

こうした声が上がった背景としては、同校の生徒だというだけで通学の途中に嫌がらせを受けた、といった事情もあるようで、もちろん筆者もその点には同情する。けれども、だからといって、「入試中止はやりすぎだ」とか、「市長はこれ以上学校のことに口を出さないでほしい」といったことを主張するのは、およそ“事の軽重”ということを理解できていないからだとしか思えない。

まず最初に考えなければならないのは、もしこうした主張がそのまま通ってしまうのだとしたら、男子生徒が自殺したという事実そのものの所在さえはっきりしなくなってしまうということだ。つまり、この状況の中で自分たちこそ被害者だと主張することは、責任の所在をあいまいにすることにつながり、要するに自殺した本人だけの問題なのだ、という結論につながりやすいということに(少なくとも、プロであるはずのマスコミの人間たちには)もう少し敏感であってほしかったと筆者は思うのだが…。

次に、この桜宮高校の体育科を受験しようと考えていた中学生たちについては、もちろん気の毒なことだとは思うけれども、これも橋下市長自身が語っていたように、現状のままで新入生を受け入れること自体の是非が問題にならないことの方がおかしいし、戦後日本の教育の歴史をほんのちょっとふり返ってみるだけでも、過去には、学校群制度の導入や共通一次試験制度の導入といった、はるかに大規模な制度の転換があって、(これらの制度の是非は別として)それでもみんなそれに適応してきたのだということも思い起こすべきだろう。それに較べれば、同校の受験を考えている中学生たちには、まだはるかに大きな自由が与えられているのは明らかだと筆者は思う。

最後に、筆者にとってこの問題でとても気になるのは、父兄や生徒たちの声があまりに「損得」の問題だけに偏っていて、「自分さえよければ」という気分が強く感じられる点だ。そして、「自分」というのは個人だけに限らず、何人いても、集団として「自分たちの利益」を主張することも十分にありうることで、その方がむしろ怖いかもしれない。

なお、「軽重」は「けいじゅう」ではないし、「かるおも」でもない。「けいちょう」と読んでいただきたいので、その旨、お願いしておきます。

*1:そうしたマスコミ報道の典型の一つとして、この「赤旗」紙の記事を上げたい。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-21/2013012103_02_0.html筆者は別に「赤旗」を白眼視するつもりはないが、この記事はダメである。

置き土産

世間では安倍政権がどうなるのかへの関心しきりのようで、それも無理のないこととは思いつつ、年末でもあるので、この26日に総辞職した野田政権のことなどについて少し振り返っておこうと思う。
そもそもは、3年余に及んだ民主党政権をトータルに検証すべきだとは思うのだが、今は十分な時間もないので、ここでは短縮バージョンで済ませておきたい。

そこで、まず問題にしたいのは、やはり尖閣諸島の問題だ。
野田氏は、なぜあのタイミングで、あれほど突然に、尖閣諸島を「国有化」するなどという愚挙に踏み切ったのか…ということについては、この時期だからこそ、しっかり検証しておくべきだと思うのだが、結果の重大さばかりに目を奪われたためか、その点を問題にした言説をほとんど目にしないことが筆者には不思議でもあり、大いに不満でもある。

誤解のないように言っておけば、筆者は、尖閣諸島を日本の領土だと主張することは間違いではないし、いずれは国有化すべきだろうとは考えていたのだが、野田内閣が国有化を決定したというニュースはあまりにも唐突で、一瞬、「何だって?」と自分の耳を疑ったほどだ。

そもそも、これほど重大な事案であれば、外務省等から多くの情報を取るのが当然だし、内閣でも大いに意見を戦わせたに違いない…と思いたいところだが、今回の経緯を外側から見るかぎり、その形跡さえ見られない。筆者にはその真相はわからないが、これでは、史上にも稀れな失政をしでかしたのも無理はないと言わざるをえない。

ともかく、野田氏は政権の座を去ったが、彼が残したマイナスの置き土産はあまりにも大きい。筆者も、いたずらに悲観してばかりいるつもりはなく、今後、日中関係が少しでも改善されることを祈っているが、野田氏の誤まった「決断」が引き起こした結果は、到底短期間で水に流せるようなものではないということは肝に銘じておきたい。*1

*1:筆者は、中国側の対応についてはあえてふれなかったが、もちろん、日系企業の店舗等を破壊するなど論外なことだし、政府首脳の対応の肩を持ったりするつもりもまったくない。しかし、中国の政治体制が国際的にも非常に特殊なものであることは外交上のイロハであり、それだけの理解も持たなかったらしい人間が首相の座にあったことの異常さをここでは問題にしている…ことをご理解いただきたい。

ある類似

民主党野田佳彦代表*1は、ある歴史上の人物に、実によく似ているように思われる。

筆者は歴史学者ではないし、その人物に会ったことがあるわけでもないので、安易に断定することはできないが、その人物の事跡や当時の人々の証言の類に目を通してみると、両者の類似は否定しがたいと思うのだ。*2

その人物とは、江戸時代の終わりを招き寄せた「大老井伊直弼のことだ。
井伊直弼といえば、日本の「開国」に功があった人物と思っている方が多いと思われるけれども、当時、有力大名の多くも開国は避けられないと考えていたので、それを直弼一人の功績であるかのようにみなすのは、かなり問題がありそうだ。
要するに、開国を決めたかどうかではなく、問題はその「やり方」なのだが、知れば知るほど、直弼の対処の仕方は賢明だったとはいえず、もっとやりようがあったのではないか、と思えてくる。*3
直弼が、ほどなく“安政の大獄”にまで突き進んで多くの有為な人材を死なせ、その結果、桜田門外の路上に死骸をさらすことになったことは、改めて述べるまでもないだろう。

そんな直弼の最期が無惨なものであることは言うまでもないが、では野田氏はどうなるのだろう…と思っていたところ、すでに総選挙の結果も出た。「第三極つぶし」とも思える急な解散劇の結果誕生するのは「漁夫の利政権」であることになって、残したツケは大きいが、野田氏の悪あがきをこれ以上見なくて済むことになりそうなのは、当面、筆者個人の精神衛生にはよいことかも知れない。*4

*1:この稿は16日に一度アップしたのだけれど、不手際によって消してしまったものを再度書いてみたものだ。野田氏はすでに代表辞任を表明しているが、当初のままにしておく。

*2:当時の情勢等については、筆者はほぼ全面的に海音寺潮五郎氏の『西郷隆盛http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4022503440.htmlに依拠している。大冊だが、政治を志すほどの人なら、これはぜひ読んでみていただきたいものだ。

*3:筆者は近江の国=滋賀県の人々には何の恨みもなく、むしろシンパシーを持っているが、当時の彦根藩でも井伊直弼大老としての仕事には疑問を持つ人間が少なくなかったらしいということを付記しておきたい。

*4:筆者は、野田氏は「総理になるべき人物ではなかった」と思っているわけだが、民主党内にもそう見ている人間がいるのは当然だろう。この記事を一読されたい。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121225-OYT1T00196.htm?from=y10

「漁夫の利政権」?

年末になっての総選挙も、いよいよ今日、投票日を迎えた。新聞各紙等の予想によれば、どうやら自民党単独過半数を獲得しそうな勢いだそうだ。

しかし、今回自民党が掲げている政策を見ると、これといって目ぼしいことは何もなく、ひたすらに「民主党ではだめだ」と言っているだけとしか思えない。自民党を率いる立場にある安倍晋三総裁も、首相にふさわしい力がある人だろうか、という疑問を持たずにはいられない。

もちろん、民主党政権が国民の期待にほとんど応えることができず、とりわけ、行政機構を使いこなす能力が非常に乏しいらしいことは隠しようもなくなってしまったので、自民党民主党批判にも、一応のもっともらしさはある。
が、それはまさに「らしさ」だけでしかないように、筆者には思われる。
現在のような国内外の状況の中で、改憲を主張したり、時代錯誤の教育論議を振り回したりすることは、彼らがいかに「内向き」で視野の狭い人間たちばかりでしかないかを物語っているだろう。経済政策の目玉として掲げているインフレターゲット論も、安倍氏の口を通して聞くと、いかにも付け焼刃的なものでしかないように思えてならない。

にもかかわらず、今日の投票の結果、自民党中心の政権が再度誕生するのだとすれば、その代償はあまりにも大きなものになるのではないかと憂慮せざるをえない。

くり返すが、自民党の政策には、積極的に評価できるようなものは何もない。にもかかわらず、彼らが政権の座に返り咲くことになるとしたら、それはいわゆる敵失によるものとしか考えられない。だから、もしその政権に名前を付けるとしたら、「漁夫の利政権」とでも呼ぶしかないように思う。
国内外の情勢は、到底「漁夫の利政権」で乗り切れるようなものではないと思うのだが、それが国民の選択であるとしたら、その結果は甘んじて受け入れるしかないのだろう。

今回の選挙戦の中で、最も率直に、ウソのない言葉を語っていると思えるのはこの人だ。*1しかし筆者には、マスコミは彼の選挙戦についての報道を故意に避けてきたとしか思えない。その理由はどうあれ、結果としては明らかな情報操作に加担していると言われても仕方がないだろう。その危うさを知るためにも、これはぜひご覧いただきたいと思う。