事の軽重

昨年12月に、大阪市立高校の男子生徒が教師から度重なる暴行を受けていたことを記した遺書を残して自殺した問題について、世論もだいぶ落ち着いてきたようだけれども、やはり一言しておきたい。

ここで考えてみたいのは、橋下大阪市長が、この男子生徒が通っていた桜宮高校の体育科について、今年の入試中止を表明したことに対するマスコミや父兄、さらに生徒たちの反応についてだ。
結論から言ってしまえば、筆者は、この橋下市長の入試中止表明は、極めて当然のことだと考える。まだ同校の部活動の場で実際にどのような「指導」が行なわれていたのかの全容が明らかになっているわけではないけれども、男子生徒が所属し、キャプテンをつとめていたバスケット部の顧問の教師が、この生徒に度重なる暴力をふるっていたことは疑いないようだし、この暴力が男子生徒の自殺の直接の原因になったことも、ほぼ確実であるようだからだ。
この点について、橋下市長自身がTVにも出演して語っていたが、この事実は極めて重いし、市の行政全般を預かる身として、市長はその責任を負うべき立場にあるということも、われわれは理解すべきだろう。

ところが、これについて父兄や生徒たちから上がった声は、筆者にとってはかなり驚くべきものだった。
要点だけの紹介になるが、大きくは「自分たちはすでに随分傷つけられたのに、さらに傷つけるつもりか」ということと、「受験生に罪はない」という2点だといってよいだろう。そして一部のマスコミは、こうした声を、あたかも当然であるかのように報じて、バックアップする役割を演じたのだった。*1

こうした声が上がった背景としては、同校の生徒だというだけで通学の途中に嫌がらせを受けた、といった事情もあるようで、もちろん筆者もその点には同情する。けれども、だからといって、「入試中止はやりすぎだ」とか、「市長はこれ以上学校のことに口を出さないでほしい」といったことを主張するのは、およそ“事の軽重”ということを理解できていないからだとしか思えない。

まず最初に考えなければならないのは、もしこうした主張がそのまま通ってしまうのだとしたら、男子生徒が自殺したという事実そのものの所在さえはっきりしなくなってしまうということだ。つまり、この状況の中で自分たちこそ被害者だと主張することは、責任の所在をあいまいにすることにつながり、要するに自殺した本人だけの問題なのだ、という結論につながりやすいということに(少なくとも、プロであるはずのマスコミの人間たちには)もう少し敏感であってほしかったと筆者は思うのだが…。

次に、この桜宮高校の体育科を受験しようと考えていた中学生たちについては、もちろん気の毒なことだとは思うけれども、これも橋下市長自身が語っていたように、現状のままで新入生を受け入れること自体の是非が問題にならないことの方がおかしいし、戦後日本の教育の歴史をほんのちょっとふり返ってみるだけでも、過去には、学校群制度の導入や共通一次試験制度の導入といった、はるかに大規模な制度の転換があって、(これらの制度の是非は別として)それでもみんなそれに適応してきたのだということも思い起こすべきだろう。それに較べれば、同校の受験を考えている中学生たちには、まだはるかに大きな自由が与えられているのは明らかだと筆者は思う。

最後に、筆者にとってこの問題でとても気になるのは、父兄や生徒たちの声があまりに「損得」の問題だけに偏っていて、「自分さえよければ」という気分が強く感じられる点だ。そして、「自分」というのは個人だけに限らず、何人いても、集団として「自分たちの利益」を主張することも十分にありうることで、その方がむしろ怖いかもしれない。

なお、「軽重」は「けいじゅう」ではないし、「かるおも」でもない。「けいちょう」と読んでいただきたいので、その旨、お願いしておきます。

*1:そうしたマスコミ報道の典型の一つとして、この「赤旗」紙の記事を上げたい。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-21/2013012103_02_0.html筆者は別に「赤旗」を白眼視するつもりはないが、この記事はダメである。